2週間という期間は、1人の高校生が拳銃で通行人を撃ち殺して結局自首するという奇妙な事件を忘却の彼方に置き去りにしてしまうには十分過ぎるらしい。
特にTVのヒト達なんかそーだ。
事件の3日後にはどっかの政治家が法外な金額の闇献金でどーだとかなんとかの話題に一斉にシフトしたかと思えば、その更に2日後にはどっかの元アイドルが子供デキちゃったとかって理由で婚約の発表したとかなんとかを異様な勢いで報道し出して、その更に2日後にはどっかの大物女優が旦那と離婚するとかなんとかの記者会見の現場にサッカー中継でもライヴDVD撮影でも在り得ないくらい膨大な台数のTVカメラ持ち込んでたり、その更に2日後、以下略。
なんにしてもバカバカしい。
きっとあの元アイドルが次にTVに出て来るのは出産後の記者会見素ッ飛ばして離婚話の時だろーな、ってな予感も瞬時に浮かんでしまうトコまで含めて超バカバカしい。最大限に。
でも、なんだかんだで高校生ってのはいくらか素直な生き物で。
ホントのホントに「衝撃的」ってな事件の話題だけを選択的に、少なくとも10日間は続ける。
もちろん、あの銃撃少年とその不可解な行動についての話題だ。
「っつーかマジでさ、どーせ自首するくらいなら最初ッから殺し行くなってーの。バカだねー?」
まず初めに事件の3日後、得意げにバカ笑いしながら後藤和瀬はそう言った。
続けて「私なら最低でも警官のアタマに1発ブチ込んでやるねっ!」とかなんとか楽しげに叫んだトコで担任教師がちょーど入って来て、ソレ真に受けて血相変えた担任が無駄に右往左往した挙げ句、和瀬の両親まで校長室に呼び出しちゃったってなオチは、ある意味で最大限のギャグだったが。
(ちなみに和瀬がゆーには校長が地味に困って苦笑ってたらしい。
そりゃそーだろーなあ。そんなんで一々保護者呼んでたら仕事にならんて。。
結果、ヒステリックにガナリ立てる担任なんて9割方放置状態で、後藤和瀬&その両親&校長の楽しげなお茶会が繰り広げられたとかなんとかの模様。
なら私も混ぜろよ。バ和瀬め。)
でも、更にその翌日この担任が「クラスから被害者も加害者も出さないために、持ち物検査を実施する」とかなんとか言い出しやがッたのは、流石にギャグじゃ済まなかった。
いや、普通に考えたらどーしたってギャグだけど、言った本人余りにも本気だったので。。
「皆さんを疑う訳ではありませんが、もしも、万が一ということもあります。そういう危険な物を持っているから、危険な目に遭うのです。ですから、これは皆さんの命を守るための持ち物検査なのです」
小学3年生の担任教師かテメーは、と一香はイラついた。
ってか、どーしたって思いっきり疑ってるじゃねーか、バカ。 教室が随所でざわめき始める。
そんな中、一香は鞄の中の「持ち物検査に引ッ掛かりそーなモノ」でヤツを撃ち殺す以外に、このバカげた持ち物検査を中止に追いやる方法を思いついた。
涼しい顔して一言。
「例えば、ヴァイヴレータ持ってるの見つかったらその場で突ッ込まれるんですか?」
150cmという身長の数値を半分にした値が体重のkgになりそーなくせに無謀にセレブ気取りの40代の女性担任教師(独身)は、この下劣なセリフを聞いた途端、頭に血が上ってブッ倒れた。
倒れた原因は激怒なのか羞恥なのか知らないが、とにかくソレ以降クラスの誰も彼女の姿を見ていない。
こんな2週間の間、高校生が拳銃で人を撃ち殺す事件はたったの1件さえ起こらなかった。
一香は和瀬や稲見と連れ立って新宿や渋谷に行ったり行かなかったりだったから、少なくともコレで「浅雪一香の行く先で事件が起こる」説は消えた。
その分だけ、宮辺藍奈や水鏡一樹と会うコトも一切なかったのだけど。
一樹はともかく藍奈とは事件以外の状況下で是非一度会ってみたいと思ってたのに。
なんにしても、和瀬と稲見はコトある毎に銃撃事件の話題を持ち出してきた。
そりゃ自分達が巻き込まれそーになったのだから不安にも思うだろう。
「ホント怖いよねー。もしも2日連続で新宿行ってたらさー、2日連続銃撃事件だもんねー???」
「あははっ……;」 私まさにその2日連続でしたが何か?後藤和瀬さん。
とは思ったけど、一香はその2日目のコトは誰にも言ってない。
詮索されるのも心配されるのも好きじゃないから。
「そーだよねえ。。自首したアイツみたいのになんてさ、絶対殺されたくないよねー」
「……アイツじゃなくても、誰に殺されるのも私は真ッ平ゴメンです」
「あっ……そー言われてみればそーかも……」 響の冷たい突ッ込みに苦笑する稲見。
「でも……竹崎先輩になら……」 始まるか。バカップルの惚気炸裂が
「ヤだな、稲見さん。俺はそんなコトしないし、そもそもできないよ?」
「でもでも、誰かに殺されなくちゃいけないとしたら、私絶対竹崎先輩を選びますっv」
何時からそんな話になったのか稲見よ。 そーか見せ付けたいのか。見せ付けたいだけか。
「……で、その竹崎先輩が稲見を殺す寸前に、私が背後から忍び寄って先輩を殺す……と」
「その和瀬先輩を私が殺す……と」 「うーわー、響マジで殺っちゃいそーだしーーー」
冗談半分で和瀬はそう言ってるけどそんな訳ねーだろと一香は思う。 「………………」
マジで殺っちゃうヤツってのがどんなヤツなのか、身を以って思い知ってるから。
響は冷酷っぽく見えるくらい冷淡なだけで、ホントに冷酷ってコトはなさそーなのよ。
たぶん。 「ダメだよ2人とも。稲見さんは俺が殺させないからね」
こんなセリフ言いながらでも竹崎は本当に、本当に穏やかに微笑む。
「ふふっ、先輩ホント頼もしーですっ♪」
こんなセリフ言う時の稲見は本当に、本当に心底倖せそーだ。
こんな2人が見つめ合えば刹那、「2人だけの世界」成立。 「…………でもね、」
「でも?」 デモもストも無い、なんて1文が一香の脳裏を駆け抜け――
「……誰か1人だけ殺さなくちゃいけないとしたら、きっと稲見さんを殺すよ」
「………………えっ…………?」 ――思わぬ言葉で、デモもストも消え去った。
呆気に取られたよーな声を上げた稲見以上に一香が驚いていた。
まさか。 この。
竹崎先輩が。 こんなコト。 ゆーなんて。。。。。
「本気……ですか……?」
微笑とも苦笑とも取れない表情で、稲見が問い返す。
「本気だよ。だって、そうすれば稲見さんは永遠に俺だけのモノになる」
「ふふっ……そうですねっ……!」
あーもー。。。 誰かコイツ等止めろ。
ってかそもそも、誰か1人殺さなくちゃいけないコトになったとして、誰を殺すかが殺人者側の自由なんだったら、何もわざわざ最愛のヒト殺さなくてもいーんじゃないですか?竹崎先輩。
そしてこの言葉が全然冗談なんかじゃないコトも。
竹崎の目を見れば一香にはハッキリ分かり過ぎるくらい分かる。 そーなのか。
そーゆーヒトなのか竹崎先輩。。。 「……で、その竹崎先輩が稲見を殺す寸前に、私が」
「和瀬先輩は私に殺されるからソレは出来ません」 「テメエ響まだゆーかッ!!???」
和瀬と響は放置して。 「竹崎先輩……ソレ、マジですか……?」
恐る恐る、一香は尋ねてみる。 当の稲見がやけに嬉しそーなので話にならない代わりに。
「本気、ってのは稲見さんに言った通りだよ。冗談言っても仕方ないしね」 「あははっ……」
冗談でしか言えないよーな話しといて軽くコレだ、竹崎ってのは。。
「でも、『1人』しか殺せないなら稲見さん、ってだけだよ。別に2人以上だったら指名手配中の凶悪殺人犯だとか、どっかの国の独裁者とか、国際テロ組織の親玉とか、そーゆーのてきとーに殺して終わりにするけどね……やっぱり、『たった1人』ってのは稲見さんしか思いつかないから」
「あはははっ……」 ドコまでも惚気かこの野郎。と、一香の方が殺意に駆られて来た。
2人以上殺す場合の対象が思いっきり普通なのにはいくらか安心はしたが。
「国際テロ組織の親玉なんてどーやって探し出すんですか?」
「独裁者が支配してるよーなどっかの国にどーやって忍び込むデスか?」
マジで突ッ込むな、響&和瀬。どーだっていーだろそんなん。。
「ソレは確かに重大な問題だね……」 マジで考えるな、竹崎先輩。
「その時は私が全力で先輩を支援しますからっ!!!」 マジで意気込むな、稲見美樹子。
「まぁ、でも、そんなの面倒だから手ッ取り早く浅雪さんあたり殺して終わらせるかもだけどね」
「え゛」 って先輩、何故に私?和瀬でも響でもナシに???
っつーかいつものあの眩しい微笑みでさらりと涼しくそーゆーコト言いますヵッ!!???
「さ・せ・る・かアアァーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!」
暑苦しい絶叫。
「げッ;」 生理的拒絶反応。 間違いない。ヤツだ。ヤツが来たんだ。
竹崎の背後から全力疾走で迫り跳び上がって右足を突き出すヤツは――福部尚志!
「貴様如きに一香は殺させんッ!その前に俺が貴様を殺すッ!!!!!」 「おっと」
でもアッサリ回避されて 「うおあッ!!???」 着地ミスって地面に墜落。 バカか。
「……先輩コイツ殺していいですよ」 むしろ積極的に殺して下さい。ウザいんで。。
「本当に怖いですよね、最近の事件って。渋谷じゃまだ何も起こってないみたいですけどね」
「そうだね。少なくともTVじゃ見ないよね、何か起こったって話は」
渋谷駅構内を、稲見と竹崎は歩いている。 しっかり手と手をつなぎ合わせて。
どう見てもバカップルです、本当にありがとうございました。
といっても、周囲にもそんなバカップル多いと言えば多い訳で。
そんな中で2人はむしろ落ち着き過ぎてるくらい落ち着いてるとゆーか、つなげた手と手の間にさえ着かず離れずの距離感をキッチリ保ってるとゆーか、そんな空気を作ってる。
無理矢理くっ付いてるコトで恋人同士を「演出」するでもなく、自然とお互いから手と手が伸びて来てつながってる――長年連れ添った夫婦の間にも簡単には生まれない空気。
普段この2人を散々罵ってる浅雪一香や後藤和瀬でも、この光景を見れば一発で分かるだろう。
稲見と竹崎の間に在る空気が「作り物」では在り得ないコトが。
つまり、2人は最早アタマに「馬」の付くカップルでは在り得ないコトが。
そして、2人の間に根付いた感情が「恋」を超越して「愛」へと変わり始めてるコトが。
「だけど、何か起こったとしても――稲見さんは俺が護るから」 「先輩……?」
見つめ合う。 微笑む竹崎に対して、稲見は少し心配そうな表情を覗かせる。
「あ、勿論ソレで俺が代わりに死ぬなんてコトしないよ。どんなコトがあっても俺は稲見さんを護るけど、同時にどんなコトがあっても俺は生き残る。生き残って稲見さんを護り抜く。そしてずっと稲見さんと一緒に生きてく。俺の寿命が自然と尽きるまでは……ね」
「やだ先輩っ……; 気ぃ早過ぎですよぉ;」 稲見は思わず苦笑いしてしまう。
とゆーか、寿命が尽きるまでとかなんとか……想像さえしたコトないのに。。
大袈裟過ぎるし大仰過ぎるけど、そんなコトも軽々と言ってしまうのが竹崎。
軽く言っといて冗談っぽいかと思わせて実は素で本気だったりするから尚更怖いのが竹崎。
ついでにゆーと、「命に換えても」ってな言い方は絶対しないのが竹崎。
相手だけじゃなく自分も倖せにならない限り相手も本当の意味で倖せにはなってないと明言して、自己の欲望さえ全肯定するのが竹崎。
でも、そんな竹崎だからこそ稲見は好きになった。
最初はなんとなく付き合い始めただけだけど、やがて本気で恋に落ち、心底愛したいと思った。
こんなにも、自分なんかのために本気になってくれる男性がいるなんて……。
「気が早い……確かにね。でも、稲見さんには俺がどれだけ本気か、ちゃんと分かってて欲しいから」
「………………」 思えば、今の今まで彼の口から何度「本気」って言葉を聞いただろう?
言われなくても分かるくらいの真摯さを彼は執拗なまでに伝え続けてくれる。
何時頃からか自然と言葉として現れ始めていた彼の「本気」はもう、彼女の耳には馴染み過ぎるくらいにすっかり馴染んでいた。
っつーか、もっと言って。
一度はもう永遠に得られないモノだと絶望さえしていたのだから――
中学生の頃、少しの間だけ付き合ってた相手がいた。
その本当に少しの間、なんとなく興味本位で1回だけ、ヤッてみた。
相手があんまりしつこく要求してきてたから仕方なく……ってのもあるけど。
でも、既に経験済みの周囲の数人とか要求した当の本人とかが言うほど、イイモノでもなくて。
っつーかハッキリ言ってあの時の余りの痛さは今でもけっこートラウマってたりして。
今でも月のアレとか来て気が滅入るとソレまで思い出してマジでイヤになって。
その前後3日とか4日とか学校休んで寝潰してるコトも度々あって。
ついでに1人でするのも全然できなくなった。
ソレまで回数多い方なのかなと内心けっこー恥ずかしく思いつつも全然止めれなかった(でもそんな自分が正直ちょっと好きだった)のに、あの時以降はつい昨日の夜まで1回もしてない。
ま、相手もあの時初めてだって言ってたから、ぶっちゃけ向こうがただひたすら下手だったってだけなんだろーけど。
そう考えればその点だけは今なら大目に見てやらないコトもないけど。
(でも男って気楽だよねー。ヘタでもなんでもとにかくヤッちゃえばイケるんだもんネ!)
だけど本当に辛かったのは、そーゆー行為の痛みそのものじゃなかった。
2回目を要求(今思えばソレの執拗さは目に余った)されたのを半分泣きながら必死で断った、そのたった数日後、相手が誰か他の女と手をつないで歩いてるのを見た。
そりゃとっても仲良さそーに楽しそーにですよ、ええマジで。
相手は少しコチラに目を向けたみたいだったけど、気付かないフリをしたつもりだったのか、あの楽しげな表情を全然変えもしないで、また隣の女と見つめ合ってた。
その瞬間は何が何だか分からなくなって、街角で独り、膝から崩れ落ちた。
何も出来なくて、何も言えなくて、ただ感情を胸に閉じ込めて無理矢理家に帰って、部屋に戻って、途端に……止め処もなく、涙が溢れ出して来た。
そのままベッドに身体を投げ出して、枕に顔をすっかり埋め込んで、朝まで泣き続けた。
全体重の半分くらい涙流したんじゃないかって思うくらい泣いた。
強い一香や和瀬なら「全米が泣いた。」とか「失恋ダイエット。」とかなんとか言ってネタにできそーなくらい、泣いた。
でも自分は弱いと思ってた当時の稲見は、泣き止んだ朝から1週間、怖くて学校に行けなかった。
親にはとても心配されたけど、原因が原因だけに、何も言えなかった。
恐る恐る、相手の携帯に電話してみたけど、彼が出るコトはなかった。
何度かメールしてもみたけど、返って来るコトはなかった。
学校に復帰できてから3日目、違うクラスだった彼と廊下で顔を合わせたけど、当然稲見からは声を掛けられず、相手もそんな彼女に目を向けるコトさえなく、言葉は何も行き交わなかった。
相手にとって自分は「終わった」のだと、その時初めて稲見は思い知った。
相手と自分の関係が終わったという以上に。
今思うと泣いてたホント自分がバカみたいだと思う。
「したくない」って断ったくらいで離れてく、そんな男が悪いだけの話だから。
でも当時の自分にとっては……そんな男に捨てられたコトが、なんだか世界中の全てから捨てられたみたいにさえ感じられた。
ヤッてもイケない自分だけが異常、みたいに思えた。
ソレだけで自分の価値は完全に消え失せたと自分で決め付けていた。
――そんな男からも何度か、「本気で好きだ」とか、言われなかった訳じゃない。
だけどその男は目的の行為を拒まれただけでその言葉の軽さの程度を露呈した。
対して竹崎はといえば、もう1年近く付き合ってるけど、実はまだkissさえしてくれてない。
たぶん傍から見てる一香も和瀬も尚志も響もヤるトコまでヤッちゃってヤリまくってると思ってるかもしれないけど、全知全能の神とかそのへんに誓って言う、竹崎とはまだ1回もヤッてない。
だけど彼からの愛情を、稲見はコレでもかってくらいに感じ取ってきている。
だから――そろそろいいかな……なんて、実は思い始めてる。
「あの、先輩……!」
急に改まって稲見は言う。 彼女の脳裏には今朝ベッドで見た夢の光景が再び描かれている。
「何、稲見さん?」 そんな彼女の内心を当然、竹崎は知らない。 「あの……!」
稲見の頬が、っていうか顔全体が、急激に紅く染まる。
だってそりゃ夢の中で先輩とあんなコトとかこんなコトとか……! 「どうしたの?」
「あのっ……!」 ハッキリ言いたい。 言いたいけど言えない!
稲見脳内の激烈なせめぎ合いは、その夢から目覚めた直後の彼女の下着の状態とか、今は全然要らねーコトまで片ッ端から彼女に思い出させて、見つめ合う相手からは窺い知れない羞恥心を猛烈に加速させる。
「そのっ……!」
そして夢の中での彼氏との行為を必死で思い出しながら実に2年振りに1人でしてた行為の内容まで、今思い出しちゃうと色々マズぃのに次々思い浮かんでくる。
あのへんとかあのへんとかあのへんとかあのへんとか……自分のじゃなくて先輩の指がなぞってくると、一体どんなカンジに……いやホント久々に自分でしてみてもけっこー凄いイイカンジにイケたけど……っつーかつい勢い余って朝だってーのに何回も連続で続けちゃったけど……って今はそんなコト思い返してる場合じゃなくて!じゃなくて!!!
「……そうだね」 竹崎が間近まで顔を寄せてくる。
……って、そんな、バカップルじゃないんだからっ……!(説得力無し)
…………でもkissくらいなら、今この場で人込みに紛れて……ってのもいーかな……。
「先輩っ……;」 貴方のアレが欲しいです。 ……じゃなくて!
せめて「好きです!」の一言くらい言いたいのに、ソレさえ稲見の口からは出て来ない。
今までだって面と向かって何度も何度も言ったのに、言い合ったのに!
こんな、こんな、こんな時に限って……っ。
成る程物理の授業で習った「重力や電磁気力など、自然界に存在する力の強さは全て、距離の2乗に反比例する」ってな法則は、「愛の力」ってヤツに対しても確からしい。
彼の接近距離は過去最短を更新してたぶん今顔と顔が15cmと離れてないくらい。
この至近距離で稲見はコレでもかってくらいに彼の愛情を感じ取っている。
この愛で胸の高鳴りは爆発するんじゃね?ってなくらいにまでエスカレイトしてる。
「先輩……!」 並んで歩いてた場面からこの距離にまで接近するまで実時間はたぶん数秒。
でも稲見には数分くらいにさえ感じられていた。 ってゆか、もぉ、先輩近過ぎですよぅ……;
「………………」 ゆっくりと、稲見は瞳を閉じ始めた。
完全に閉じ切る寸前、向かい合う彼の瞳も閉じ始めたように見えた。
彼から近付いてくるのがなんだか待ち切れなくて、思わず稲見の側からも顔を近付け始めた。
しかも、頭全体より唇が先走る。 背の高い彼に合わせて、踵が地面から浮き上がって――
「………………ぐッ」
――何故か突然、竹崎が崩れ始めた。
膝が折れ、腰が落ち、肩が沈み、頭が下がる。 「せん……ぱい……?」
何が起こったのか、後れて目を開け始めた稲見には、まだハッキリ見えない。
ただ、真向かいの彼は、時間が止まったみたいに動かない。
その胸の中心だけが在り得ないくらいに鮮烈な色彩で、深く紅く染まっていて――
「………………えっ…………!?」
――大きく目を見開いた稲見の視界から、全ての色彩が消え失せた。
竹崎の胸元を染める目映いばかりの紅い色だけを残して。
年齢不相応に大人びた白いYシャツの胸元を染める、深い紅だけを残して――
「…………いっ……」
――果てしない白と黒と灰色の景色の中で。
もう、稲見の叫びは声にならない。
『リルルルルルルル……』 ジーンズの後ポケットの中で携帯が叫び出した。
味気無い電子音は単調な正弦波じゃないだけ辛うじてマシ。
ちなみに一香的には着メロとかって好きじゃない。
いくら大好きなメロディでも、あの骨の無い電子音で奏でられて一体何を喜べとゆーの。
(なんだ稲見……今先輩とデート中なんじゃね?)
液晶画面には、発信元の電話番号が繊細な筆記フォントで書き連ねられている。
最新の携帯はこーゆー些細な部分がカスタマイズできる。
些細じゃない部分でもっと他にやるコトあるだろ!とか思いつつ、一香が手に入れて真ッ先に変更した部分こそ、実はこの数字のフォントだったりする。
デフォルトの単純な丸ゴシックじゃいくらなんでも味気なくて。
(……ったく、リアルタイム倖せ自慢ってか稲見テメエ?)
一体何時から後藤和瀬みたいな嫌味な女に成り下がりやがッた。
ソレはともかく、本来来るハズのない相手からの着信を、一香は思いっきり不審がって受ける。
「あら稲見さん。今頃先輩とはベッドの上ですの?」
多少の嫉妬と怨み節を込めて、わざわざ当て付けてみる。 しかし―― 『一香っ……!』
「…………あ?」
――返って来たのは今にも泣き出しそーな、っていうか既に泣いてるよーな稲見の声。
『先輩がっ……!』 「竹崎先輩が?」
まさか無理矢理襲い掛かられそーになって逃げ惑ってる最中?とかなんとか邪推。
でも、あの竹崎先輩に限ってまさかそんな……ねえ? 『先輩……が……っ』
電磁波を伝う稲見の声が明らかに弱まってきてる。 「おい稲見?落ち着け?」
『………………』 通話は切れてないのに向こうからの声が届かなくなった。
「だから、どーしたってんだよッ!!???」
違う、逃げ惑う最中だったらこんな弱々しくなるハズない。
何故逃げるかって、そりゃ逃げなきゃ生きられないから。
生きなくちゃと思ってるヤツがこんな急激に弱まってく訳がない!
「……確か渋谷、だよな?」 デートの行き先を改めて尋ねる。稲見からの返答は無い。
ただ、『ガチャ』と何かが落ちた音だけが聞こえた。
けっこー大きかったので、たぶん携帯本体が地面に落ちた音か―― (まさかッ……!)
――そのまさか、なんかじゃないコトだけを祈る。
「待ってろ稲見!今私が行くっ!!!」
発信元には恐らくもう届いてない声を最後に、一香は通話を切った。
「……せん……ぱい……」
完全に床に倒れた竹崎の側にへたり込んで、稲見はただ泣いていた。
泣く以外の行動を取り様もないくらいに、理不尽な事態を目の当たりにして。
「……なんでっ……?」 竹崎の背中には、1本のナイフが深く深く刺し込まれている。
そしてハッキリと胸の表側まで貫き通されている。
更に、今の稲見には分析し様もなかったが、ナイフはその刃を差し込まれた直後、時計回りに90度捻られている。
一撃で完全に心臓を破壊する手法だ。 「どうしてっ……?」
傷口からはもう、生温かい鮮血は噴き出して来ない。
ずっと握っていた彼の手が徐々に体温を失っていくのと同時に、稲見は自分自身も冷たくなっていくような気がしていた。
飛び散った彼の紅い血を浴びた彼女の顔は、ただただ蒼白くなり続けていく。
2人の周囲からはもう、無数に連なってたハズの人込みはほとんど消え去っている。
時折通り掛かる人々は大量に飛散した血液を見て大きく距離を取るか、あるいは最初から見向きさえしないか。
誰かが救急車とか警察とか呼んでた声も飛び交ったハズなのに、呼ばれた側が駆け付ける様子は何故か、一向に無い。
稲見はまさに、独り取り残されていた。
「……たけさき……せんぱい……っ」
もーそろそろ「稲見さん」じゃなくて、「美樹子」って名前で呼んで欲しかったのに。
同時に「竹崎先輩」じゃなくて、「裕也さん」って呼んでみたかったのに。
お弁当だけじゃなくて、朝も夜も……ご飯作ってあげたかったのに。
あと他にいろいろ、あんなコトとかこんなコトとか――
「…………おい」
「っ……!!???」 ――背後から肩を叩かれ、思考の錯綜は寸断された。 「誰……?」
振り返った先に立っていた1人の少年は、その問いには答えない。
「早く逃げとけよ。じゃないと……」 「もう、いいよ……っ」
少年の言葉を遮って、稲見は俯いたまま喋り出す。
「先輩がいないのに、私が生きてたって……っ」
その手が竹崎の胸元を貫いたナイフに向かって伸びる。
その手を少年は平手で強く払い落とす! 「…………っ」 バチン、と打撃音が響く。
稲見の白い指先が少し紅く染まる。 「なにするのよぉ……っ」
「オマエはソレでいいのか?」 涼しげな表情のまま、少年の口調だけが少し強まった。
「貴方に何が分かるの?私、凄い好きだったんだから……竹崎先輩のコト……!」
稲見の声も呼応するように大きくなる。 瞳からは大粒の涙が再び零れ始める。
「その先輩がいなくなったら……私が生きてたって……!」
もう1度、竹崎を刺したナイフに向かって一気に手を伸ばす。
しかし今度はその腕ごと、少年の手に掴み取られる。
「オマエがソイツの後追って、オマエ以外の誰が満足するんだ?」 「………………!」
稲見の目が大きく見開かれた。 同時に、少年に掴まれた腕から力が抜ける。
少年はもう片方の手で、傍らに転がったままの稲見の携帯を拾い上げる。
「何のためにコイツ呼んだのか……分かってんだろ、ホントは」
液晶画面に表示された発信履歴。
当然、『浅雪一香』の名前と携帯電話番号が表示されている。
「…………一香……っ」
その名が呼ばれると同時に、少年は稲見の腕を解放した。
稲見が立ち上がり、走り去った後、少年は改めて竹崎の遺体に歩み寄る。
「こんな『ゲーム』で死ぬのは……『当事者』だけで十分なハズなんだ……」
背中に突き刺されたナイフを抜き去る。
その刀身に刻まれた2桁の数字は――“77”。
「おはよー一香ちゃんっ!!!!!」 「うぼァッ」
改札を抜けた途端、一香は宮辺藍奈に跳び付かれ、押し倒された。
周辺の視線は一気に2人の少女に向けて集束する。
「あ、藍奈ちゃんっ……ちょっとコレはっ……;;」
「あ、ゴメンねっ。人前でこーゆーの流石にちょっと恥ずかしぃよねー」
「こーゆーの」に持ち込んだ張本人が、いつもどーり悪びれずに言い放つ。
「分かってるなら早く退けてよォ……起き上がれねーじゃん;」
「……ホントはちょっと……退けたくなかったり……してv」
「いーから黙って退きやがれこの小娘ッ!!!!!」
怒鳴られた藍奈は少し不満気な表情を浮かべて跳び退いた。
「まーやっぱり、ソレなりのトコでヤるべきだってコトですかー」
「そーだねえ。ソレ相応のシチュエィションなら――」
初めての相手が同性ってどーよ?とか思わないでもないけど。
藍奈くらい可愛ければ考えないコトもないのが浅雪一香。
「――って、今そんなコト考えてる場合じゃねーんだよっ」
……危うく藍奈のリズムに乗せられて重要なコト忘れるトコだった。
「……稲見は?竹崎先輩は?」 藍奈がその名を知ってるかどーか知らないが。
「一香ちゃんのお友達なら、一樹くんが逃がしてくれてるハズだから、大丈夫だよ。でも彼氏の方はもう――」
「――そう」 つまり「そのまさか」的中、ってコトね。
……なんて冷淡な割り切り方が既にして一樹や藍奈のリズムに近付いてる証拠だってコトに、一香はまだ気付いてない。
「竹崎先輩ッ……」
お互いに全く知らない仲ではなかったから、当然ある程度の怒りは込み上げて来る。
でも、その半分は冷静な怒りだ。 自分の友人にとっての最愛の男性を「そのまさか」の事態に追い遣った「状況」、ソレ自体に対しての。
「ったく、何度も何度も――」 2週間前、新宿駅構内とその周辺を舞台に相次いだ銃撃事件。
その最中に2度巻き込まれ、しかもそのうち1度は犯人と直接に対峙したとは言え、一香にとっては実はドコか「他人事」みたいな感覚だった。
でも、今回は違う。
自分の友人が彼女自身以上に大切に思ってる相手、まさにその人が巻き込まれた。
彼女の悲しみを携帯電話を通して直接伝えられた自分は既に「当事者」に違いない!
「行くよ藍奈ちゃん。犯人がドコにいるか知らないけど、必ず引き摺り出してやる」
「……そぉだね」
この時に限って何故か寂しげな藍奈の微笑みの意味を、一香はまだ知らない。
「そいえば、アイツは?」 走り出した直後、ふと気になったので尋ねてみる。
いつも?藍奈と一緒のハズなのに、今日は珍しく別行動か。
……いや別に、アイツ自身が気になるって訳じゃなく、藍奈が1人ってコト自体の方が気になったってだけで。。
「一樹くん……さっき言ってたけどね、『独り』になっちゃったヒトが、ホントはまだ『独り』じゃないってコト分からせてあげるためにはね、分からせてあげよーとする方が『1人』で行かなくちゃダメだって」
「…………はぁ?」
一樹と比べたら明らかに口数の多い藍奈だが、こんな長文を一気に話すとゆーのも逆に珍しい。
質問の答えになってなかったのもあるけど、まずその点を一香は不思議に思った。
「『独り』になっちゃったヒトの前に、『2人』で仲良く出てっちゃったら……もっともっと、自分が『独り』だって感じちゃうから……私と一緒に行かない方がいいんだって」
「……あー、アイツ稲見のトコ行ってたのね?」 実はその部分だけ半分信じてなかった。
けど、わざわざ藍奈にソコまで言い聞かせた上で別行動してるのなら、ホントに稲見を助けに行ってくれたんだろーなと思う。
思いたい。 っつーか生きてろ、稲見。 アイツが助けてくれてもくれなくても。
私が行っても行かなくても。 いや絶対行くけど!
「………………!」
大勢がごった返す駅構内を無理矢理走る最中、不自然に人数の少ない空間が見えた。
その部分だけが明らかに避けられている、ってなカンジに。 「稲見っ!!!」
彼女の姿が見えた訳じゃないけど一香は名を呼んだ。
その場に居たのは藍奈の相方と――紅く紅く染め上げられて横たわる青年。
当然その、倒れてる方が竹崎先輩だってコトは見えた瞬間に察した。 「なんでこんな……っ」
疑問とか疑念とか疑惑とか疑心とかそーゆーのが背筋から一気に湧き出して来る。
知らない他人が狙われたとか、自分が巻き込まれたとか、そんな程度の頃に直感的に思った「たぶん理由なんて何も無い」ってのが、流石に比較的親しい知人が殺された途端、ほんの少しも納得できなくなる。
だってソレ言ったらそもそも竹崎先輩が殺されなくちゃいけない理由の方こそ何も無い!
「なんで先輩がこんなっ……!!!!!」 目の前の一樹に向かって叫ぶ。
彼が殺した訳でも、理由を知ってる訳でもないのは分かるけど。
納得行かない感情に任せて一樹の襟元に掴み掛かる! 「……訊いてどーにかなるの?」
「全部オマエが私の前に現れてからじゃねーか!この疫病神野郎!!!!!」
「俺とオマエが逢わなければ、誰も殺されなかったってコト?」 「………………っ」
襟元掴まれても相変わらず表情一つ変えず、一樹は淡々と言葉を返してくる。
ドコか余裕なその態度で尚更、一香の感情は逆撫でられる。 「てめェこの野郎ッ――」
右拳を握り、振り上げ――
「一香――!!???」 「はぃ?」
聞き覚えのある、というかいつも聞いてる声で、一香は固まった。
だってホントなら、今更こんなトコにいていいヤツの声じゃなかったから。
「ちょ、、、、、稲見オマエなんで――?」 戻って来てる場合か!!???
「だってやっぱり私、先輩を置いて行けな――」
言い掛けた刹那、一樹は一香の手を振り解いて稲見に駆け寄る! 「退いてろッ!!!!!」
「えっ……!?」 目一杯伸ばされた一樹の手は、稲見の胸の谷間あたりを強く突いて――
「ひゃあっ!!???」 ――稲見は大きく突き飛ばされた。
「……って、ヲィテメェゴルァ一体ドコ触って――」
瞬時のセクハラ劇に怒りを覚えた一香が一樹に詰め寄ろうとしたが、その瞬間――
「――!!???」 ――眼前を一直線に駆け抜けた銀色の一閃。
反射的に一香は飛び退いて、床に崩れた。 「なっ……!?」
閃光の走った先、駅舎の柱に何か突き刺さってる。 どう見てもナイフ――鋭利な刃の。
「あーあ、外しちゃったじゃんよォ?」 「なんだ……っ!?」
突然聞こえて来た、聞き慣れない女の声の方へと振り返る。
「……あ、いや別にアンタに当てよーとした訳じゃないんだけどさ」
もう一方の柱の影から姿を現した女が微笑みながら一香を見下ろす。
当然ナイフ投げた本人なんだろーが――学校の制服らしき紺のブレザー、薄くチェック模様が浮かぶ灰色のスカート、長く真っ直ぐな茶髪、身長は一香より少し高いくらい――楽しげながらもドコか落ち着いた微笑みさえ浮かべてるヤツは、どう見ても普通にそのへんの女子高生みたいだ。
「そっちの彼女が彼氏んトコにわざわざ戻って来てくれちゃうからさ……後追いたいのかと思ったら水鏡君がジャマしてくれました。っつー訳で」
「……テメーが先輩を……ッ」
ほとんど淡々と語るヤツを一香は鋭く睨む。しかしヤツは一香を意に介さない。
「せっかくナンバー刻んどいたのにさ、外すなんてカッコ悪いですよ。彼氏が77だったから、同じくゾロ目の88番目で仲良く逝かせてやろーかと思ったのに……」
倒れ込んだままの一香の眼前を横切って、ヤツは柱に刺さったナイフを抜き去る。
「貴女が……先輩を……?」 一樹の後ろ、立ち上がった稲見が問う。
「あー先輩って彼氏ね。まーそんなトコ。こーやってこぉ、正確かつ精密に心臓を狙い定めて、一撃で――」
ズガッ!!!!! 「――っ痛ぇッ!!!!!」
ナイフ振り翳しながらの自慢げな説明は藍奈の鉄拳による割り込みで寸断された。
「誰もそんなの聞きたくないってーの」
「あー、、、藍奈ちゃんいたのね。ホント相変わらずマジ殺したくなるくらい可愛いんだからもー。。殺さないけどね」
「アンタがその気になっても私を殺すヒトは決まってるから、殺されないけどね」
藍奈のとても細い腕からは信じられないほど遠くまで殴り飛ばされたヤツもヤツで、倒れ込みもせず両脚で踏み止まる。
「???????」 ヤツの殺す殺さないの基準、藍奈の意味深な言葉。
頭上を飛び交う状況の不可解さが、慣れるに慣れれない一香を尚更に困惑させる。
「んじゃっ、ちょっと他のヤツ殺して来るわー」 「なっ……!!???」
一際楽しげな微笑みを浮かべると、ヤツは藍奈に背を向けて走り出した。
「そーはさせるかっ!!!!!」 「ちょっ……!!???」
藍奈も早速、ヤツを追って加速する。 続いて、一樹も――
「オマエは彼女を無事に帰してやれよ」 「えっ……!!???」
――そして一香の心理を置き去るほどに事態の進展も加速する。
良く、いや全然分からないまま、一香は稲見と2人取り残される。
「ったく、なんだってんだよ……?」 一香は漸く立ち上がって、俯く稲見に歩み寄る。
「ほら稲見。今度はちゃんと逃げるよ――」 「……先輩にも触られたコトないのに……っ」
「――あぁ!!???」 小声で何か呟きながら、稲見は肩を震わせている。
その顔が改めて紅く染まり始めてるのが直視しなくても分かる。
(このノロケ野郎ッ……まさか事態の優先順位大間違ってんじゃねーかっ!?)
そんなコト気にしてる場合じゃねーだろーがこの際、と一香は多少キレて――
「ったく助けられといて今更恥ずかしがってる場合かッ!!!別に減るモノでもねーだろーがこんなモノッ!!!!!」
「ひやッ、ちょ、、、一香……っ!!???」
――けっこー豊かな稲見の両胸を一香は思いっきり、思いっきり揉み解す!
「っつーかテメーホント高校生か?反則だろこの大きさはッ!!!!!」
ほんの少し程度しか「出てない」自分の胸元に一瞬だけ視線を落としつつ、一香は両手に込める力を思いっきり強めて――
「反則はアンタでしょッ!!!!!!!」 バキッ!!!!!
「……ッ痛ってッ!!!!!」
――稲見の拳で反撃された。
「一香の変態、バカ、H、サディスト、猟奇趣味!ちょっと感じちゃったじゃないっ!!!」
羞恥やら激怒やらで顔を真ッ赤にして稲見は叫び尽くす。
「……っ痛て……や、感じたならソレはソレで良くね?」
てか変態とかはともかく猟奇趣味とか言われる謂れは無いのデスケド稲見さん。
「良くない!なんかヘンな方向に目覚めちゃったらどぉ責任取ってくれるのっ!!???」
「…………責任取って欲しいの?」 ワザとらしく大袈裟に、ニヤリ、と一香は微笑む。
「って、そーじゃなくてっ……」 「……アンタを生かして帰すのが今の私の責任だね」
「あっ…………!」 同時に強く両手を握られ、稲見は大きく両眼を見開いた。
「竹崎先輩の仇ならたぶん、あの2人が討ってくれるよ。だからアンタは――何が何でも――先輩の分まで生きて、生き延びろ。先輩だってそう思ってるハズだからさ」
声を落ち着けて、一香はゆっくりと言い聞かせる。 「先輩の……分……まで……?」
真ッ赤に泣き腫らした稲見の両眼に、涙の雫が再び浮かび始める。
ソレを確認して、一香は彼女の肩を抱き寄せる。
「そう、竹崎先輩の分もね。アンタは幸せにならなくちゃいけない」
一香としては歯が浮くのを通り越して胃の中身と一緒に内臓全部が口から吐き出されかねないくらいのセリフだったが、稲見に死なれたくないってトコだけは心底本音のつもりで。
「せんぱい……っ」 涙を大きく溢れさせて、稲見は唇を噛み締めた。
「先輩……ずっとずっと、一緒ですよね……」
すっかり冷たくなった竹崎の手を取って、稲見は自分の胸に強く押し当てた。
そして、最初で最後のkiss。 「『美樹子』って呼んでくれなくて残念です……裕也さん」
強引に微笑んで、端整な青年の顔を1度だけ抱き締めてから、彼女はその場を立ち去った。
2人で手をつないで、2人で切符買って、2人で改札抜けて、2人でホームへと続く階段を下りる。
あんな凄惨な事件(既にそう扱われてるであろう)が起こったとゆーのに、駅構内はソレでも大勢の人々でごった返してて、少しでも気を抜くと2人は離れてしまいそうになる。
「一香……大丈夫だよね。ちゃんと2人で帰れるよね……?」
歩きながら何度もそう尋ねてくる稲見。 その度に一香の手を握る力を強める。
「そりゃね、竹崎先輩の魂に誓って。私がアンタを守るって決めたからね」
一香もその度に無理矢理微笑んで、稲見の手を強く握り返す。 「……ありがと」
相変わらずの涙目で、稲見もまた微笑み返す。 「あっ、今ちょーど電車来てる。急ぐよ!」
「えっ……!?」 一方的に稲見の手を振り解いて、一香は一気に加速してホームへと向かう。
「ちょ、、、一香待ってよぉ;;」
遅れて稲見も駆け出し、丁度開いたばかりの電車のドアへと跳び込む。
「もぉ一香ってば……危険ですので駆け込み乗車はお止め下さいってのにさー……」
少し息を切らしながらも悪態が先走る。
って言うか、別に走らなくても全然余裕で間に合ったよーな気がする。 「…………一香?」
同じドアから先に飛び乗ったハズの相方の名を呼ぶも、反応が帰って来ない。
「……ちょっと、一香ドコ???」 周囲を見回してもソレらしい人影は無い。
仕方なく一度外に出て探そうかと思った途端、発車を告げるベルが鳴り――
「えっ……!?」 ――電車は容赦なくドアを閉めて動き出す。
縦方向への慣性が横方向へと移動し始めた瞬間の稲見のバランスを崩す!
「はわっ……!!???」
転びそーになりながらもなんとかドア脇の手摺りを捕まえて、外を見ると――
「…………一香……!」
――電車のドアの向こう側、つまり駅のホームに、相方の姿はあった。
そしてその姿は、速度を上げて後方へと遠ざかって行く。
「ちょっと一香っ……なんでっ……!!???」
半分涙声で人目憚らず叫ぶも、一香にその声が届いたかどーか。
ただ一香は穏やかに、しかし力強く、電車の中の稲見に向かって微笑んでいた。
「……コレはもう、コチラ側だけの問題だ。アンタはこんなのに巻き込まれちゃいけない。
だからアンタの分まで、私が先輩の仇討ってやるから」
再度、一香は階段を駆け上がる。
竹崎の心臓を破砕したナイフが残した傷痕の形状はハッキリ一香の目に焼き付いてる。
いや、一香が見た時は既にナイフ自体は抜き去られていたが、明らかに「心臓の中心に突き刺してから丁度90度の捻りを加えた」特異な形状の傷口に見えた。
ソレが「絶対確実に心臓を完全破壊する方法」だというコトまでは今の一香は知らなかったが、ソレでもその方法と比べると、「ただ単純に肺を深く突き刺す」方が、圧倒的に簡単な一撃死の手法になり得るのではないか――という程度の推論はできた。
胸部全体に占める割合を考えれば明らかに心臓より肺の方が大きい。
つまり何が言いたいかとゆーと、「ヤツはわざわざ難しい心臓の方を狙って破壊してる」という面倒な方法でわざわざ楽しんでる嗜虐性と、「わざわざ難しい心臓の方を狙って破壊できる」という程にはヤツの技術が卓越してる危険性の、両方が高い確度で存在するっつーコトだ。
2週間前だっけ、新宿駅構内とその周辺で銃撃しまくってた野郎も――ドコでどーやって習得したのやら――かなりの正確さで人間の額とか一発で撃ち抜く技量を備えてた。
今日のあのナイフ女も武器は違えど十分にソレ級の危険物だってコトは、存分に覚悟しとかないといけない。
そんな中で一香にその「覚悟」を決めさせたのは、竹崎が殺されたためだけではない。
特に何も起こらなかった最近2週間はその存在自体をほぼ意識してなかったが、彼女の通学鞄の中には今も確かに、いわゆる「抑止力」であるトコの「拳銃」ってヤツが潜んだままだったりする。
対して当然、相手の得物「ナイフ」は、近接しないと攻撃できない。
手投げで遠隔攻撃に転用するにしても、見てから十分に回避できる程度の低速でしか飛ばせない。
単純に考えて、ほとんど回避不可能な高速で遠隔攻撃できる「拳銃」を持つ一香の側が十分有利。
そして別に、その拳銃の一撃で確実に殺す訳じゃなく、ひとまず脚でも撃ち抜いて移動できなくしてしまえばいい。
そんな策を、一香は稲見の手を引いて走りながら企てていた。
(ドコ行ったのかな……藍奈ちゃんとアイツ……?)
なんだかなんとなく、心の中ででも「水鏡一樹」の名を反復する気にはなれない。
自分をこんな状況に追い込んでる(少なくとも一香としてはそう決め付けてる)張本人が自分とほぼ同じ名前ってのが、一香はどーにも気に入らなかった。
ってのはともかく。。
竹崎が殺された現場まで戻って来てはみたモノの、既にその竹崎(の死体)を含めて、関係者は誰も残っていなかった。
犯人がドコまで走り去って、藍奈達がドコまで追ってるのだろう。
自分もその追跡に加わらなければいけないと今日ばかりは強く思う――
ドサッ!!!!!
「うがあッ!!???」
――背後に突然、何かが落下する衝撃音が響いた。
慌てて振り返ると、足下には人間の身体が転がされていた。 「あはは、ビビッてやんのー♪」
「てっ、てめェ――」 楽しげな声が上の方から響いてくる。
見上げると、さっきのナイフ女が階段の上から一香を見下ろしていた。
「わざわざ戻って来るなんて、アンタけっこー物好きさんだねえ。死にたいの?もしかして?」
ニヤニヤと嫌らしく笑いながら、女は次のナイフを懐から取り出す。
「あーちなみに今ソコで死んでるのが91番目。アンタ何番目になりたい?」
「うるせぇ黙れ変態。テメェが92番目だ」
睨み返しながら、一香は右手を鞄の中に忍ばせる。
しかし今落ちて来たのが91番目ってコトは、88番目に稲見殺すのが未遂になってから現時点までの僅か5分くらいの間で、既にして4人殺したっつーコトか。
「おーーーっ、水鏡君も藍奈ちゃんもそんなカッコ良いセリフ吐かなかったよ。アンタ思ったより素敵だねえ……よし決めた!アンタに栄光の99番目をくれてやるッ!!!!!」
「あぁ!!???」 そんな栄光要りません。
とか一香が思う間もなく、言い返す間もなく、ヤツは一瞬で階段を駆け上がっていった!
「テメッ、待ちやが………………れっ!!???」
後を追って走り出そうとしたが、足元には「91番目」が。 一香は躓いてしまった。
「いてッ……!」 倒れずに踏み止まりはしたが、この拍子で相手を見失ってしまった。
殺しの手際も逃げ足もヤツは速い、と改めて思わされる。 「にっ、逃がすかッ!!!」
既に見えなくなった相手の姿を追って、一香は階段を駆け上がる。
右手はまだ鞄の中から出さない。
「一香ちゃん!」 「藍奈ちゃん?」
階段の上まで辿り着くと、藍奈の高い声が聞こえた。
「あの殺人マニア、無ッ駄に脚速いんだからもーーーーーっ」
一香に駆け寄って来た藍奈は小さな肩を大きく揺らして息をしている。
「もっと早く追い着けてれば、こんな大勢殺されるコトもなかったんだけどな」
藍奈に続いて一樹も駆け寄って来る。彼も微かながら呼吸を乱している。
この短時間で、2人はヤツを追ってドレだけの距離を走ったのか。
「こんな大勢って……まさかアイツ、今日1日で90人も!!???」
っつーかソレだけ好き勝手殺らせてる間に警察かなんかのヒト止めろよと思うが。
「いや……今日だけで20人くらいか。今までは1日に、多くても10人くらいだったんだけど……」
一樹の表情が少しだけ歪められているのが一香には分かる。いわゆる「苦虫を噛み潰す」、その軽いヴァージョンか。
「10人も20人も十分多過ぎだよ!警察とかって何やってんだよ!!???」
人目憚らず一香は叫ぶ。 「……分かってる。だから今日で……」
「私だって分かってるよ、ヤツは先輩の仇だ。『99番目』にされるのもゴメンだしね」
後々になって冷静に考えれば、この時点で既に色々とおかしなコトになっていたのは間違いない。
しかし一香は「先輩の仇」と「99番目」に意識が向く余り、状況を捉え直すコトはしなかった。
ヤツの名は「牧野十夜子」とゆーらしい。
藍奈と一樹とは以前から何度か鉢合わせてたらしい。
牧野が通行人を次々とナイフで刺し殺すのを、藍奈と一樹は阻止できなかった。
そして今日に至る、と2人が説明した。
「俺がもっと早く止めてれば……オマエの先輩とかも殺されなかったのにな」
「今更……。言ってるヒマあったら『92番目』が殺されないよーにしないと」
そう割り切って、一香は更なる提案を持ち掛ける。
「見失った相手を3人で追うなら、手分けした方早くない?」
3人で一緒に走ってても埒が明かないと思った。
「でも、ヤツはかなり強い。1人で太刀打ちできるかどーか――」
一香としては思い掛けないコトを一樹が言う。
むしろ、最初に一樹の方からそうするコトを提案されると一香は思っていたのだが。
「……アンタにしては存外に弱気じゃない?」
「事実を言ったまでだ。この人込みの中でアレだけ速く走り続けて、アレだけ手際良くヒトを殺し続けられるヤツ相手に、単身で挑むのは危険過ぎる」
「この前は拳銃持った相手に『3手に分かれた』のに?」
「ソレは、相手が大したコトないと踏んでたから……」
一香に指摘されると、一樹の口調が少し弱まった。
「私が何持ってるか、アンタ知ってんでしょ」 半分無理矢理に、一香は微笑んでみせた。
「お願い!逃げて!!!」
94番目、95番目。
一香の叫びを聞こうともしない通行人が次々と牧野のナイフに刺されていく。
どうして……どうして声が届かないんだろう。
「ははっ……素敵なアンタ。あと3人殺って、そしたらアンタの番だから。楽しみにしててね♪」
「うるせえ黙れ!そんなに殺りたきゃ今すぐ殺りゃいーだろーがッ!!!!!」
高らかに笑う牧野に向き直る者はいない。 叫ぶ一香を何かと思って振り向く者もいない。
道行く人々にとっては他人が携帯電話で会話してる内容ほどにも耳に入っていないのか。
他者に無関心な都会の冷淡さが、普段は自分自身の存在を透明化してくれて在り難いカンジのその冷淡さが、今ばかりはどーにも恨めしい。
とゆーか、私の声に気付かないで死んでくのはオマエ等なんだよ通行人の皆様???
追跡は何時しか渋谷区を北に抜けて新宿区に入っていた。
新宿⇔渋谷、この辺りの電車で3駅というのは頑張って走れば届いてしまう距離だ。
コレだけの距離を走らせて92番目から95番目までの4人しか殺されてないのはまだマシに見えるか、ソレともコレだけ走られて止めれない方が情けなく見えるか。
一香本人としては後者だと思っていた。
何しろ、まだまだ鞄の中の「アレ」を外に出してさえいない。 「はあ……はあっ……」
息を切らしながら、また走り出す。 まだ走り続ける。
逃げる牧野がまだ走り続けてる以上、追う一香が止まる訳には行かない。
走るの止めて電車に乗り換えて逃げ帰っても構わない気はする。
でも、そーなれば牧野は確実に96番目から98番目までの3人を今日中に殺すだろう。
そして一香はヤツがいつ「99番目」の自分を殺しに来るか、その影に怯えながら日々を過ごさなければならなくなるかもしれない。
だから今日この場でヤツを止めない限り一香に完全な平穏は訪れない。
「77番目」として親友の稲見の恋人だった竹崎先輩が殺された分も含めて、一香は1人でいくつもの責任を背負い込んでいた。
「待てよ、待てったら……!」
「待てと言われて待つヤツがいるかよっ、バーカ!」 未だ楽しげに叫ぶ牧野十夜子。
高層ビルの非常階段を軽々と駆け登るヤツの体力は無尽蔵なのかと一香は疑いたくなってくる。
と言うか正直もう追いたくない、疲れた、やってらんない。
でも、追わなきゃ追わないでまた誰かが殺される……。
「あら?」
非常階段を登りきった最上階の扉を開けて外に出た牧野が首を傾げた。
行き着いた場所は単なる屋上のヘリポートというヤツでしかなかったからだ。
何事も無い状態で誰か人がいる場所ではない。 「マズったかな……?」
屋上の逆の縁まで歩いて階下を見下ろし、都会の光の海に目を泳がせる。
当然、手を伸ばしてナイフが届く位置に人は誰もいない。
「99番目」に定めた獲物はきっと、自分が今登って来たのと同じ階段を登って来る。
ヤツともう1度会う前に96番目から98番目までの3人を殺せる可能性は、この場所に辿り着いたコトで著しく低くなってしまったと言うより他に無い。
「仕方ねーなあ、降りて出直しか……」
「待てよっ!!!!!」
余力の限りに一香は叫んでいた。 牧野の後を追って非常階段を登って来たのだ。
「はあ……追い……着いた……っ……!」 とにかく牧野を止めたかった。
声ででも銃ででもなんでもいーから。 「…………おりょ、思いの外早いじゃねーの?」
一香の方に向き直って、牧野は少し目を丸くした。 「はあ……っ」
呼吸を整える間もなく、一香は鞄の中から拳銃を取り出す。 そして牧野に向けて構える。
「あ、そーゆーの持ってたんだ?おもしれー」
牧野はただ、高層階の合間を流れる強い風に、その長い髪をなびかせている。
「面白くねーよ!コイツのせーで……っ!」 一香は引き金に指を掛ける。
殺人、殺人、殺人。 全部コイツが学校の机の中に入ってた日からだ。
「ソイツなら間違いなく私を殺せるね。面白いって!ホントさ!」
「面白くねえっつってんだろーがッ!!!」 ゲームみたいに他人の命弄びやがッて。
いや、自分の命もか? なんにしてもとにかくフザケんな。 フザケんな。 フザケんな。
フザケんなフザケんなフザケんな。 フザケんなフザケんなフザケんなフザケんなフザケんな。
もーとにかくホントにフザケんな……
「フザケんなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!」
叫びながら一香は引き金を引いた。 ニヤニヤ笑う牧野の顔面の中心目掛けて。
ズギュウウウウウウウ……ン!
「………………はっ」
腰を半分抜かしながらも、牧野は冷静に銃弾の行く末を確認した。
少なくとも自分の体のドコにも、何も当たってはいない。 「外して……やんの……!」
銃声の瞬間に引きつった微笑が、勝ち誇った笑いに変わって行く。
「アレだけ言っといて、アレだけ叫んどいて、結局外すかよ。ソレだけの得物持ってて、私1人だって殺せやしねーのかよ。つまんねーなあ、ホントによォ……!」
言いながら、牧野はゆっくりと一香に向かって歩いて来る。
「失望した。アンタなら楽しませてくれると思ったのによ、本ッッッ気で失望したよ」
駆け抜ける強い風の向こうで、一香の瞳に映るヤツの姿は少しずつ霞んでくる。
「もーいーよ、アンタ今すぐ死ね。栄光の『99番目』なんて勿体無いからさ、この『96番目』なんて全然面白くもなんともないつまらない数字で、最ッッッ高につまらない死に方しやがれ」
近付きながら牧野は懐から新たなナイフを1本取り出す。
近付いて来るにつれてヤツの笑いがより一層の狂気を帯びてくるのを一香は感じる。
風の音と同じくらい、耳元で響く自分の心臓の音が大きくなってきた気がする。
迫り来るヤツの姿の中で、手元のナイフだけがハッキリと輝いて見える。
下に広がる街の光全部をナイフの刃先に集めたみたいに。 「………………っ」
一香はいつの間にか、その場に崩れ落ちていた。
座り込んだまま立ち上がれずに、ただ迫り来る牧野の姿を眺めていた。 逃げたい。
逃げられない。 一香はただ、目を閉じ――
ぶすっ
「あ……!?」
――ナイフの刃先の感触が胸に届いた様子はなかった。
ただ、目を開けると、牧野が自分の寸前で止まっているのだけが見えた。 「み、水鏡く……」
その声だけを最後に、牧野は動かなくなった。
「大丈夫か?」
そう問われて一香が見上げた先には、水鏡一樹の姿があった。 「あっ……」
大丈夫、と応えるべきか。
大丈夫じゃねーよ疲れたよったくどーしてくれるんだこの野郎、とでも応えるべきか。
瞬時にいろいろ思い浮かんだが、ただ涙が溢れ出してくるばかりだった。 「ううっ……」
どうしてだろう。 どうして涙が出てくるんだろう。
どうしてなのか分からないまま、ただ一香は泣き出した。
「うわあああああああああああああっ!!!!!!!」
思わず一樹の胸元に抱き着いて、ただひたすら泣き続けた。
稲見の恋人、竹崎先輩が殺されたから? その先輩の仇を自分で討てなかったから?
ソレとも逆に、自分が他人を殺しそーになったから?
何も分からないまま、一香は一樹の胸の中で、ただ涙を流し続けていた。
一樹はただ黙って、そんな一香を抱き留めていた。
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