つくづく丁度良い時代に生まれたものだと彼は思う。
神聖なる力が邪悪へと転じる200年目の幸運を、ただ感謝する。
……いや、幸運などという非科学的な言葉は全く以ってこの機に相応しくはない。
運命など在り得ない。 これは社会学的に、いや、むしろ科学的に「必然」なのだ。
無条件に人民を支配する「王朝」などは、「必然的に」打倒されなければならない。
そして、富裕と貧困の格差は須らく科学的手法により是正されなければならない。
自分はただ、その道程を少しだけ後押ししようとしているに過ぎないのだと。
「…………『蒼の星石』。これさえ手に入れれば……!」
彼は祭壇の中央へと歩み寄り、微かに蒼く光り輝くその『石』を手に取ろうとする。
魔術の力を持たない者はその力によって弾き返され、触れる事さえ適わない。
そんな伝承さえ語られる『石』を前に、彼は思わずその手を止めた。 「………………」
やはり伝承の通りにその力によって拒まれ、弾き返されるか。
或いは200年の周期に従ってその力が弱まり、受け容れられるか。
躊躇する間など与えられてはいない。 この場を誰かに見られたら……。
そんな弱みを振り切ろうと自らの使命を思い起こし、大仰なまでに叫んでみせる。
「否、始めぬ事には終える事さえ叶わぬのだ!!」 思い切る。 手を伸ばす。
拒否されるならば所詮、それまでの事。 「………………!!!」 蒼い輝きが消える。
彼の手が『石』に触れる。 それはほとんど、全くと言って良いほど同時の出来事。
『石』が彼を認め、そして屈したかのように。 「おおっ……!!!」
余りの手応えの無さに少なからず拍子抜けしながらも、感嘆の声が漏れる。
いや、この手応えの無さこそが自らに「必然」がある事の何よりの証拠だと、思い直す。
そう、時代は変革――『革命』を望む、と言う事だ。
そして彼は、『石』を自らの手の内に収める。
後は200年と言われる『周期』の通り、この『石』が『闇』の色へと転じれば――
「何をしているッ!!???」
――刹那、祭壇の間に若い男の声が響く。
「何奴!?」 背後の声に反応し、彼は振り返る。
こんな夜中に自分以外の誰がこの祭壇の間に足を踏み入れようというのか。
「それはコチラのセリフだ。畏れ多くも王家の秘宝が安置されている、この祭壇の間に足を踏み入れるとはな」
説明過多に言う青年の声には、確かに彼は聞き覚えがあった。
「まあ、何も盗らずにオトナしく帰るというなら見逃してやっても構わない」
「フン……若造が、何を偉そうに物を言っておる」 ――思い出した。
確か、魔術研究所の――。 「言っても分からない……か」
彼の恫喝にも、青年は顔色1つ変えない。 「貴様こそ己の立場を弁えていない様だな……」
彼が言い返す。 途中で、青年が右手を彼に向けて掲げ――
「………………っ!」
――刹那、彼の顔のすぐ脇で、『何か』が動いた。 「な……なんだ、今のはッ!?」
いや、他の何でもなく、『空気』そのものが突き動かされて駆け抜けたような――しかも、通常の魔術としては間違いなく在り得ないほどの、圧倒的高速度で。
「その気なら今ので首を刎ねても良かったが……この神聖なる祭壇を盗人如きの血で穢すのは流石に気が引けるからな」
言いたいコトは分かるだろ?という、青年の表情。 「くッ…………!!」
反射的に1歩、彼は後に退く。
――成る程、流石に史上最年少で王立魔術研究所に配属されただけの事はある。
発動させる素振りすら全く見せずして、この魔術か――
苦々しくも勝ち目は無いと彼は判断した。相手が悪過ぎる。
しかし、このまま奴の言う通りおとなしく引き下がったとして、本当に見逃される保証も無い。
右手を前方に掲げたまま、青年が彼に歩み寄る――
「………………ん;」 目が、覚めた。 なんだかいつもと感触の違うベッドの上で。
意識はまだハッキリしなくて、体の奥に小さく閉じ篭もったまま表に出て来ない部分と、ドコか体外の別の空間を何のアテもなく浮遊してる部分が一致してないカンジだ。
意識と身体のヴェクトルが一致してないとでも言うか。
カーテンの隙間から射し込む太陽の光が眩しい。
その光に突き刺すような鋭さを少しだけ感じるのは、到底朝と呼べる時間ではないからか。
(……なんで、寝てるんだろ……?)
そのまま寝続ける訳にはいかないと思って、曖昧な意識の中で身体を起こそうとする。
でもどういう訳か両腕は鉛みたいに重く、両足には鈍い痛みが残ってる。
背中はベッドに縫い付けられてるみたいに起き上がる動作を拒否する。
(どーなってるんだろ……?) 意識も曖昧なら記憶も曖昧。
無理矢理連れられて街の中走り抜けて森の手前まで行ったよーな、ソレから――
「…………あ」 ――巨大な『獣』みたいなのに追われてたよーな。
――ひたすら魔術放ってみたよーな。 ――で、なんとか『獣』倒せたよーな。
思い出したらなんとなくそのへん全部夢じゃねーかって気がしてきた。
でも、だったらこの腕の疲労感と脚の痛みは何?
「あ、授業っ……;」
尚更に大事な大問題をトーアは唐突に思い出した。
そうそう、なんで街中走り抜けて森の手前で『獣』と戦っときながらこんな朝でもない時間に目が覚めやがッたって、授業放置して飛び出してったからじゃねーかって。
「ったく、もぉっ……!」
せめて午後の授業くらいキッチリ出やがれと鈍い思考の中で強引に自分自身に言い聞かせて。
普通なら1秒としないうちに床と垂直になるまで起こせるハズの上体を、不可解なまでの重量感に逆らいながら6倍時間掛けてなんとか60度くらいまで起こして。
ココで漸く、同じベッドにうつ伏せに倒れ込んでる人物に気付く。
「…………ミラっ!!???」 ちょっと驚いた拍子に上体の角度が30度くらいまで逆戻り。
でも同時に頭の中で漸く、曖昧だった記憶と意識の糸が1本につながった。
ついでに今寝てるこのベッドも学校の医務室のだと漸く分かった。
(そっか、あの後ミラが学校まで運んで来てくれたのかな……?)
『獣』倒してからの記憶がほとんど残ってないのは、その時点で自分が意識失って倒れ込んじゃったからなのだろーかと。
身体の痛みと疲労感もその戦闘の影響だろう。
そんな自分をミラがなんとかココまで運んで来てくれたってコトか。
一旦冷静になれば、誰か他人が見てた悪夢を後から無理矢理なぞらされたみたいだったあらゆる事態が全て、至極当然の帰結に思え――
「……って、ミラ、授業は……っ!?」
――ない。
あのちょっとミラさん、何も一緒になって眠りこけてなくても。
っていうか午後の授業出てなくて良いんですかミラさん。 「…………ん〜〜〜;」
当のミラはそんな彼の気も知らず、ただ穏やかに寝息を立ててる。
トーアは自分の頭の重みと痛みで少し倒れそーになりながらも何とかベッドから立ち上がり、彼女を起こそうと歩み寄る。
(……ったく;)
度々朝寝坊したり授業中に寝たりする上に夜もいつも早々に寝てるっていうミラは明らかに寝過ぎなんじゃないかとか思いつつ、彼女の肩の辺りに軽く触れる。
「ミラ………?」 「…………ふみゅうぅ……」
すると、彼女の上体に少し力が入ったような気がした。
ソレは「起こされたって絶対起きねーよっ」なんて暗黙の意志表示のように思えた。
しかも睡魔の呪縛に囚われた眠り姫なんて可愛らしいモノじゃなくて。
ただ起きるの面倒だから寝れるだけ寝続けてやるッ!っていう、消極的極まりない脊髄反射の産物みたいな。
そいえば授業中でさえこんなカンジで爆睡し切ってるコトもあったっけ、と回想。
「……たはは;」 ミラの母さんも毎日起こすの苦労する訳だよ、と苦笑。
今日に限っては自分も他人のコトとやかく言えないけど。
だったらミラも疲れたのかな、と彼女の寝顔を覗き込もうとした途端。
「…………とーあぁ……」 「な……ッ!?」
あのちょっとミラさん何もこんな瞬間で目覚まさなくても!
焦って慌ててトーアは彼女の顔から離れる。
他意は無かったつもりだけどタイミング絶妙過ぎて少なからず後ろめたい。
「…………ひょこりぇーひょみゅーしゅひぇーひ……」 続け様に口走るミラ。
(……あ、寝言か;)
明らかにソレと分かる呂律回り切ってない声に、トーアは胸を撫で下ろす。
やっぱミラも疲れてるんだろーな、と彼女の寝顔を改めて見ながら思う。
だからってこのまま授業そっちのけで寝続けさせる訳にもいかないし。
「…………あにきぃ……」 トーアの配慮など知る由もなくミラの寝言は続く。
「…………このバケモノっ……!!」 「………………はぃ!?」
そんな中で突如、彼女の口調は一転。
どーしたコトかと思ったトーアが再び彼女の寝顔を覗き込もうとした途端――
「兄貴から離れやがれッ、この×××野郎ッ!!!!!」
聞き覚えあるよーなセリフが寝言らしからぬ発音の明瞭さを以って医務室に響き渡る!
「ええっ!!???」 「えあー・ぶらすとっ!!!!!」
目の前のトーアの存在に気付いてるハズなんてないミラが突発的に叫んだその言葉は他でもない風の魔術、『突風』――
「……って、だから寝言なんだっけ……」
――しかし意識的に魔術として魔力を集束させるなんて、当然寝ながらだと無理がある。
っていうか普通に絶対無理。
そのへん分かった上でトーアは彼女に背を向け、聞き流したつもりだったが、
「うりゃああああああああああああああああああああっ!!!!!」
彼女が続け様に容赦なく叫ぶと背後から魔法力の脈動が!
(………………まっ、まさかッ;) そのまさか、って気付いた時はもー遅い。
トーアの身体はミラが寝惚けながら放った『突風』に巻き込まれ……吹き飛ばされる!
「はわあぁっ!!???」
しかもドコから沸いてくるんだってくらいの魔力が集束してる彼女特有の暴走魔術で!
トーアは全身に強風を受けて空中で半回転し、そのままドカーンという衝撃音と共に医務室の壁に背中から叩き付けられ、やがて頭を下にしたまま重力加速度を受けて壁から床へと滑り落ちた。
「はうぅ……;;」 普通に激突したら頚椎とか折ったんじゃね?ってなくらいの衝撃力。
でも、ミラが唱えたのが『風』の系統だったのが、幸いしたと言えば幸いした。
何故ならトーアの側も瞬時に同じ属性の魔術を唱え返すコトで、『風』の流れ全体をある程度まで制御しつつ、なんとか激突の衝撃を弱められたからだ。
「……あ痛たた;;」 でも、完全に威力を相殺という訳にはまずいかない。
というか、完全に相殺させるなら相手と同等以上の魔法力をその一瞬のうちにドライヴする必要があるので、長時間集束させてもミラの瞬間最大値には到底及ばないトーアの魔法力では、まずできる訳もなく(フレイ・ローテソンなら可能かもしれないけど)。
例えできたとしても、その衝撃が相殺された余波は『風』が『風』を呑み込んで100%以上がそのまま最初に唱えた相手に直撃するコトになる。
そーなると結果として逆にミラの方に致命傷負わせてしまうコトになりかねなかったので、トーアとしては自身が多少のダメージを覚悟するしかなく。
ただ、『流れ』を的確に認識できさえすれば、相手の魔術に比べて随分と小さな魔法力で撃ち返しても威力を相当大きく軽減できる――ソレが、『風』と言う攻撃魔術属性に特有の性質。
つまり『風』じゃなくて、最も威力を相殺させづらい『雷』だったらそりゃもー……ミラの魔術の威力からして今頃トーアは黒コゲ、or消し炭。とゆう最悪の可能性。
シャレになってねー。 (っつーか、さ……?)
寝惚けて魔術使うってアリですかミラさん?
ある意味凄いけど寝惚けてちゃ意味ないですよと。
「…………ふみゅうぅ、失せろバケモノっ………………くー」
そして当のミラは未覚醒状態故に、前代未聞の偉業を自らが為し遂げたコトにもトーアを壁に激突させたコトにも気付かず。
その寝息は再び安らかなモノへと戻っていく。
「ったくもぉ……っ;」 なんとか脚が動く。
タダでさえ彼方此方痛んでた身体が尚更痛いけどよーやくなんとか立ち上がれないコトもなく。
ガチャ。 医務室のドアを誰かが開けた音。 「えっ……!」
ちょっとコレは、この状態で目撃されるのはちょっと……!
思って焦れば焦るほど全身の痛みが行動のジャマをする。
でもドアを開けた誰かは、いつの間にか音も無くトーアの目前に現れていた。
アルティナ・フレニング教官だった。
「……無理矢理襲い掛かって、拒否されて、跳ね飛ばされて……?」 「全然違います」
他意も悪意もない微笑み浮かべて教育者らしからぬコト言わないで下さい先生。
「貴方は……!」 ――祭壇を取り囲んで半永久的に輝き続ける、魔力ランプの淡い光。
その光で互いの顔が判別できるほどの距離にまで近付くなり、強圧的だった青年の口調は、一転した。
「何故、貴方ほどの方がこのようなマネを――」
「黙れ。貴様等魔術師には傲慢なる支配階級に搾取される労働者人民の痛苦など分かるまい」
ほとんど反射的に、彼の固く信奉する主義主張が持ち出されていた。
本来なら彼のような立場の者が口にするには余りにも本末転倒なハズの反階級的思想。
そして、目の前の青年を含めたこの国の魔術師達のように、自分達の立場に安住して易々と生き長らえるだけの者には、決して理解し得ない絶対的理想。
「……貴方がソレを言える立場ですか?」 彼の明確な矛盾を、青年も突く。
「だからこそ、この私が始めねばならぬのだ。この『石』の力を以って!!」
しかし、だからこそ尚更、彼の使命感が怒声を張り上げさせる。
大声で静寂を破れば衛兵が駆け付けるかもしれない――という、当然の注意も忘れさせるほどに、彼の中で燃え滾る救世の焔火は高く大きく熱く激しく巻き上がる!
「さあ立ち去れ若者よ。我々と共に虐げられし人民がため闘わんとするならば話は別だがな!」
青年が立ち塞ぐ祭壇の間の出口へと向かい歩み出す―― 「………………!!!」
――が、またしても、彼の頭部のすぐ側を突風が通り過ぎる。
いや、今度はその鋭利な一片が彼の左頬の皮膚をほんの僅かながら斬り裂いている。
「……演説を続ける前に『石』を元に戻して下さい」
青年の右手の指先から、魔力ランプの淡く包み込むような光とは全く違う、鮮烈な閃光の残り香のような輝きが薄れていく。
それが魔術を詠唱(スペル)し、行使した際に伴う発光現象だということを彼は知っている。
「………………」 なれば一体、いつ何時、この青年は魔術を詠唱したというのか?
あらゆる魔術は、「集束、増幅、解放」の3段階を経て「発動」に至る。
その途中の3段階を司り、進めるのが、「詠唱」と呼ばれる行為だ。
そんな基本原則はソレを使えない彼でも存分に理解している。 しかし、青年は――。
その過程をほとんど省略して一瞬にして魔術を発動させたのではないか……?
「馬鹿なッ…………」 「次は本当に首を刎ねるコトになりますよ」
硬直する彼に、青年は冷たく言い放った。 「在り得んッ……!!!」
そんな言葉が自然と漏れた。 在り得ないのはあの青年の圧倒的に過ぎる魔術行使能力か。
そんな青年が彼の崇高なる理想への道程を第一歩の段階で寸断しようという目の前の現実か。
「………………」 ふと、右手の力を抜く。 『石』が、床に落ちる。 ――カツン。
微かながらも甲高い音が、冬の夜の凍て付いた大気を鋭く震わせる。 「……やれやれ、」
音を確かめて、青年はその方向へと歩き出す。
しかし、本来なら夜の暗闇の中でこそ一際、その蒼い輝きを湛えて見せるハズの『石』は――
「………………?」 ――見えない。 ――輝かない。
魔法陣実験室の奥で、トーアは授業を抜け出した事情をアルティナに説明していた。
特に、『魔獣』の出現については念入りに。
「……なるほど、クマさんと狼さんの間の子だったんですね」
いつものように妙なポイントにだけ納得するアルティナ。
珍しく、非常に珍しく、いつものような微笑みを浮かべていないから、尚更ギャップ激しい。
「そっ、ソレはともかく……っ」 トーアとしても突ッ込みづらい。
「あーゆー『魔獣』って、最近はすっかりいなくなったハズなんじゃ……?」
そう、かつて――とは言ってもほんの数百年前の話だけど――この地に限らずエルトシア大陸のドコにでも、『魔獣』と呼ばれる異常なまでの凶暴性と無駄に強靭な生命力を備えた生物が少なからず存在して、その他の生物よりも格段に大きな規模で人間に様々な害を成していた。
その存在は最早、人間に仇成すためのモノだとさえ思われるくらいだった。
でも『魔獣』はやがて、人類が文明を発達させるにつれてその生息域を狭められてきた。
現代ではもう、あんな人里近くの森で出現するなんて、まず在り得ないのに。
いくら普段あの森にいる『野獣』が並外れて凶暴で強靭だとしても、流石に『魔獣』そのものってコトなんて、まず在り得ないのに。
「なのに……どうして……?」
「クマさんと狼さんの間の子」の姿を、トーアは思い返す。
その圧倒的に巨大な体躯を思い返す。 血の色みたいに紅く光る4つの眼を思い返す。
「私のトコも、フレイくんからの連絡が途絶えてまして」 「えっ……!?」
唐突に話題が変更される。 「連絡、してたんですか……っ?」
しかも内容は、トーアには初耳だった。
フレイからアルティナへの連絡が「途切れた」というトコじゃなく、そもそも「連絡」してた、という事実の時点で。
「兄さんがそんな……」
意外と言えば意外、でもあの兄もアルティナ先生の人柄には少なからず信頼を置いてたのかと思えば多少嬉しくもあり。
学院のどの教官をも圧倒的に上回る能力の片鱗を在学中から既に発揮して、ソレ故に誰も信用してなかった印象さえあった兄だけに。
そーなると尚更、その連絡を途切れさせたってのが、正直いただけない。
「だったらなんで……」 「…………コレは、私の推測でしかないのですけど……」
アルティナは一呼吸も二呼吸も置いて、こんな前置きも付け加える。
慎重に慎重を期すようなその姿勢に、トーアを取り囲む部屋の空気が少し重くなる。
「……あのデマみたいな噂が全部、事実だとしたら――」
この言葉が更に空気の重みを増し、空間を凍り付かせる。 数秒の沈黙。
それがトーアの心理の深層にまで、彼女の言葉を重々しく響かせる。
(……あのデマみたいな噂が全部、事実だとしたら――)
「…………そんなっ!!???」 だとしたらますます話の筋が読めない。
今の時点で「あの噂」ってのは、流れからして兄フレイに関するモノだって分かるけど、でもソレが『魔獣』の出現とどうつながるとゆーのか。
「まさか兄さんがそんなコト……」 理解もしないうちに少し下を向く。
「いいえトーアくん、フレイくんがどーのこーのって言うんじゃなくて」
そう言いながらアルティナがトーアに顔を近付けて来る。
実の姉のように、そして実の母親のように慣れ親しんでいる彼女とは言え、その軽く波を打った長く艶やかな黒髪が自分の肩にまで触れると、思わずトーアは頬を紅く染めてしまう。
「……せ、先生っ;」
重く凍り付いた部屋の空気とは正反対の、微熱を帯びた緊張感が、背筋から全身へと駆け巡る。
「あの……先生そんな近付かなくても;」 先生のコトだから他意はないのだろう。
「いえ、このコトだけは絶対に大声では言えませんから……」 「……で、でも;;」
だからってトーアは何故か体温が上がるのをどーしよーもなく。
そんな彼の焦燥にも似た感情の揺らぎには全く気も留めず、アルティナはもう少し近付いて来る。
そして今まで以上に小さな声で、決定的に血の気を引かすような一言を――
「王宮の秘宝……『蒼の星石』が、本当に持ち去られたとしたら――」
――事実、トーアの背中を焦がす微熱は一瞬で冷め切ってしまった。
「………………!!???」 ソレこそまさかのまさか、ってヤツだ。
アーデンツ王家に代々伝わる秘宝『蒼の星石』は、その名の通り、夜空に輝く星をも超えるとさえ言われるほどの目映い輝きを放つ蒼い宝石だとか。
とは言え、『秘宝』とまで称されるほどの代物故か、実際にその輝きを目にした者は王家の中でもほんの一部にしか過ぎない、とか。
そんな訳で、一般には「世界で最も美しい宝石」なんて風評だけが流布しているのだが、それは飽くまで「単なる宝石」としての話でしかない。
「あの蒼い『石』には……」
一部の魔術師の間では、その秘宝に関する全く別の噂が、長々と語り継がれている。
真偽の程は別にして、何度も耳にしたその噂は、トーアもハッキリと記憶に止めている。
「……この国の命運を左右するほどの強大な魔力が、本当に宿っているとしたら――」
「風の……流れが……!?」 時に『風』と言い換えられる、大気中の『魔力』の流れ。
『蒼の星石』は、王国全域に渡るほどの『魔力』の流れを制御し得るという。
「ええ、流れを乱せば野生動物が悪い影響を受けても不思議ではありません」
古くからの、「風が揺らぐと魔物が来る」という言い伝え。
『魔物』、即ち『魔獣』が激減した現在でも、ソレは一部の魔術師達の間で語り継がれている。
現代の魔術は科学的に理路整然と体系化され、もはやその原理の大部分は『神秘』ではない。
だからこそリカレス魔術学院やヴァステホルム大学魔法理学部、その他エルトシア大陸各地で、魔術研究が「学問」の一分野として成立し、多種多様に応用される世の中になりつつある。
一方、アルティナは過去から連綿と受け継がれて来た感覚的な経験則も、魔術師としての重要な素養だと考えている。
そもそも今の今まで魔術師はずっと、そーゆー感覚を研ぎ澄ませながら、この世界を生き延びてきたのだから――
「それじゃ兄さんがあの『石』を奪って何かしてるってコトですかっ……!?」
とにかく、トーアにとっては安易に認められない話。
確かに『蒼の星石』は失われ、風の流れは乱れ、兄もドコかへと行方を消したのだろう。
「気持ちは分かりますけど、トーアくん……」
彼の言いたいコトを察したか、アルティナの表情が今まで以上の翳りを帯びる。
「ホントの所が何も把握できていない訳ですから……」 「分かってます」
しかし、トーアは改めて顔を上げた。
アルティナの言う通り、真相について自分は何も知らないのだ。
「ヴァステホルムまで行って、自分の目で確かめます」
そっか、そーゆーコトなんでしょ。 たぶんその方が全然速いんでしょ。
なんとなくトーアは開き直っていた。 開き直るしかなかったから。
「ソレは、私が行くつもりなのでしたけど……」
「だったら先生、僕に何も言わない方が良かったんじゃないですか?」
言い返しながら、思わずトーアは微笑んでいた。 「……トーアくんにしては珍しく積極的ね」
アルティナも思わず目を細めて、微笑み返していた。
教官から与えられた課題だけを淡々とこなしているだけのような普段の彼の印象と、何か違うモノが見えたから。
「……兄さんのコトですから当然です」 少し照れながら、トーアはそれでも淡々と返答する。
「もしかしたら本当に、本当に大変なコトになってるかもしれませんよ?」
「でも、兄さんなら……分かってくれると思うし、分かってるハズです」
誰もが兄を信じなくても自分だけは信じよう。
圧倒的過ぎる能力故にアルティナ以外の教官からは冷ややかな目で見られていた学院在学中の兄の傍ら、ずっとトーアは密かに誓っていた。
ソレはトーア自身に対する教官達の視線への反発の意味も込めて。
青年はとりあえず音を辿り、闇の中から『石』を拾い上げた。
何の手応えも無く手の内に収まったそれはやはり――輝かない。 「貴様、一体何を……!」
輝きを失った『石』に疑念を抱き、青年は彼に叫び掛かる。
その声が彼を我に返らせる結果となったのは、ある種の皮肉か――
(これは……ッ)
――今この瞬間この場にいるのは―― 彼自身、そして彼を阻もうとする青年、その2人だけ。
そして問題の『石』を持つのは――彼ではなく、青年。
――ニヤリ、と不気味に勝ち誇った微笑が浮かぶ。 「出合えッ、盗人だ!!!」
明確に外部にまで聞こえ響き渡るほどに、彼はその野太い怒声を張り上げた。 「!?」
自分から忍び込んでおいてその事実を外部に知らしめようという彼の行為を理解しかねたか、青年の判断が一瞬遅れ――
「なっ……!!???」 「ククク、もう遅い」 ――彼は不敵に笑い、青年を睨み付ける。
「もう間もなくこの場に衛兵達が駆け付ける。なればこの状況下、盗人として扱われるのは誰か、貴様と私の立場の差を考えればそれは明白であろう」
「……アレだけ言っておいて自分の立場を利用するなんて……虐げられる人民の痛苦が聞いて呆れますね」
「何とでも言うが良い。もはや悠長に手段を選ぶ事さえ我々には許されぬ」
彼は目的の正当性故に自分の言と動の不一致に疑問を抱きさえしない。
『なっ、何事ですかっ!?』 『まさか、侵入者がッ!?』
叫ばれて漸く今までの騒ぎに気付いたのか、警備の兵士達が階段を駆け上がる靴音が響く。
その音は当然ながら青年の耳にも届いてくる。 「くっ……。このままじゃ……」
「そうだ、そのまま大人しくしていろ」 彼は焦燥に駆られる青年の声を拾い、投げ返す。
「でなければ『石』を元に戻して即刻立ち去るかだ。もっとも、どちらにしろ私は後で悠々とそれを手に入れるのだがな」
「『元に』、『戻す』……?」 「そうだ、その通りだ」
言わずと知れた事をわざわざ問い返す青年の意図を彼は気にも止めなかった。
その瞬間に青年の表情から焦燥の色が消え失せた事にも、気付きはせず――
――蒼白の閃光が一筋、夜の闇を駆け抜け――
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